石川准<いしかわ・じゅん>
私が失明したのは16歳のときでした。それから2年間、病室の中で時間だけが流れていきました。医者も親も、可能性のない治療に終止符を打つことができず、誰もが立ち止まっていました。最終的に退院したいと切り出したのは私自身でした。病院の外に出たとき、光は失われていましたが、不思議なほど気持ちは明るくなっていました。ようやく未来に向かって歩き出せる、という感覚があったのです。
盲学校に入り直して学ぶことになりましたが、そこで受けたのは小さな驚きの連続でした。見えないことは、できないことではない。生徒たちは驚くほど速く点字を読み、よく笑い、よく動いていました。その空気に触れたことが、大学進学への挑戦につながりました。やがて東京大学に入学することができました。しかしその先に待っていたのは、「本が読めない」という別の種類の暗闇でした。読みたいという気持ちはあるのに、方法がない。見えない壁に立ち尽くすような時間でした。
転機は、突破口にならないかと思って出かけたアメリカ留学の最中に訪れました。パソコンに表示された情報を音声で読み上げるスクリーンリーダーに初めて触れたとき、霧が一気に晴れるような感覚がありました。自分の道具は、自分で作りたい。そう思いました。帰国後は、純粋な面白さに引き寄せられるように毎朝コードを書き続けました。その傍<かたわ>らで書いた論文『逸脱<いつだつ>の政治』が評価され、大学に職を得ることになりました。情報の壁を崩す道具を作ること、そして、人にはまだ見えていない問題を言葉にすること。この二つが、その後の私の仕事の両輪になりました。
開発の分野では自動点訳ソフトに取り組み、大学発ベンチャーを立ち上げ、スクリーンリーダーや点字端末の日本語移植に関わってきました。私にとっては、ペインキラー(痛み止め、不便を解決するサービス)を作ることが、そのまま自分自身のペインキラーでもありました。研究の領域では障害学という思想に出合い、目からうろこが落ちる思いがしました。障がいとは身体機能の欠損ではなく、環境とのミスマッチが放置されている状態だという社会モデルの考え方です。あの暗闇の中で感じた失意は、個人の不運ではなく社会の設計の失敗だった。そう腑<ふ>に落ちた瞬間、研究の方向が定まりました。障害学を日本に紹介し、仲間と共に障害学会を設立しました。
その延長線上で、障がい者政策にも関わることになりました。内閣府障害者政策委員会委員長、そして国連障害者権利委員会委員。役割と責任はいつも重く、追い付こう、追い付こうとする日々でした。しかし振り返ってみれば、その試行錯誤<さくご>の時間そのものが、次の仕事へと私を押し出してきたのだと思います。
近年のAI(人工知能)の急激な進歩には驚嘆<きょうたん>しています。とりわけ視覚障がい者にとって決定的なのは、AIが「目」の役割を引き受け始めたことです。画像や動画を言葉に変え、風景や図表を説明し、判断までしてくれます。さらに、より高度なAIシステムは、スクリーンリーダーでは操作できない画面を代わりに操作してくれます。アクセシビリティ(利用しやすさ)の不備を、力ずくで乗り越える道具が現れつつあります。しかし手放しで楽観することはできません。最も賢いAIを最も早く作ることに資源が注がれる一方で、それが倫理的であるかどうかを測る基準の整備は遅れています。どれほど賢くても、倫理を欠いたAIは凶器になり得ます。人権を最優先する規範をAIに教え、それを検証する仕組みを社会全体で作らなければならない時代に入っています。
社会を変えるのは技術だけではありません。問題を発見し解決しようとする人の共同作業こそが時代を動かす力です。自分が感じている不便さや違和感を大切にしてください。それは、あなただけが気付いている問題の入り口かもしれません。人生はフィールドワーク。歩きながら考え、考えながら進む。その先に、まだ誰も見ていない景色が広がっているはずです。
