中澤朋希<なかざわ・ともき>さん
「今の自分があるのは、支えてくれた方々やフットボールのおかげ。恩返しのためにも、日本代表選手として世界選手権で世界一をめざして頑張ります」。こう語るのは、弱視の人がプレーする「ロービジョンフットサル」で活躍する中澤朋希さんです。現在、仲間と共に立ち上げたチーム「CLUB VALER TOKYO(クラブ バレール東京)」で主将を務めるとともに、障がい者と健常者が共にプレーするフットサルチーム「バルドラール浦安デフィオ」で副主将として活躍。来年、英国で開催される世界選手権に向けて活動するロービジョンフットサル日本代表の強化指定選手にも選出され、日々、練習に汗を流しています。一方で障がいへの認識や理解を広めるため、小中学校での授業やサッカーイベントなども行っています。
幼少期からスポーツが好きだった中澤さん。5歳の頃、日本と韓国が共催したワールドカップ日韓大会をきっかけにサッカーを始めました。小学生の時には空手や水泳などもやっていましたが、ずっと続けられたのは、大好きなサッカーだけだったと振り返ります。中学は私立の中高一貫校に通い、サッカー部に所属していましたが、高校生になると勉強中心になったため、サッカーからは次第に遠ざかりました。
高校2年の冬、模試を受けていた時のことです。残り時間を確認しようと時計に目をやると、文字盤がぼやけていました。目の疲れか、視力が落ちたんだろうと思い、眼鏡かコンタクトレンズを作るために眼科へ。視力を測るなど診察してもらうと医師から「これは異常だ」と告げられました。もっと大きな病院へ行くよう案内され、検査入院することに。告げられた診断結果は、視神経の難病「レーベル病」でした。この時、1.5あった視力は1カ月で両目とも0.01に。「家族や友達の顔、教科書、黒板の文字、日常生活で見えていたものが急に見えなくなって困惑しました。さらに、半年後には願書を提出しなければならない時期でもあったので、もともと進もうと思っていた進路を変更せざるを得ない状況になり、絶望的でした」と当時の心境を打ち明けます。
将来が不透明になり、不安を抱えたまま半年余り過ぎたある日、校長先生から日本に唯一、視覚・聴覚障がい者だけが通える国立大学があることを教えられ、「行けば何か見つかるかもしれない」との気持ちになり、進学を決意。無事に合格することができ、大学生活が始まりました。
2016年、大学生になった中澤さんに転機が訪れます。それは、ロービジョンフットサルとの出合いです。この競技は、弱視の選手4人と晴眼者のゴールキーパー1人の5対5でプレーします。特殊な装具は使わず、通常のフットサルコートで、フットサルボールを使用します。「小学校、中学校とサッカーをやっていましたが、ボールも人も見えず、最初はパスもトラップもまともにできませんでした」と中澤さん。諦<あきら>めて競技を離れた時期もありましたが、サッカーへの熱い気持ちが消えず、もう一度挑戦。仲間と声を掛け合い、ボールや人の位置を把握<はあく>する技術を磨きました。そうした努力が実り、19年にはスペインとトルコで行われた世界大会で、念願の日本代表として出場を果たしたのです。「優勝こそできませんでしたが、いろんな国の選手や監督と話して、日本と世界の障がいに対する意識の違いを感じることができたことが、今の活動につながっています」と語ります。
中澤さんは「将来の日本を創るのは子どもたち。障がいの有無に関わらず、全ての子どもが自分らしい人生ストーリーを描ける社会にしたい。そのために、フットボールを通して夢や希望を与えられるよう、これからも挑戦していきます」と笑顔で抱負を語っていました。