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点字こうめい No.83

<特別寄稿>
出来ないことではなく「出来ること」を数える
~社会は多様であり、すでに共生している~
フリーアナウンサー 町亞聖<まち・あせい>


 私の人生には10年に1回奇跡が起きます。史上初の延期を経て開催された東京パラリンピックでも、ミラクルがありました。3年前からパラスポーツを応援するラジオ番組『みんなにエール!』を担当していますが、当初、ラジオは現場に取材へ行けないと言われていました。私がパラリンピックを知ったのは約30年前。くも膜下<まっか>出血で倒れた母は、命は取り留めたものの重度障がい者になり車いすに。パラ競泳の成田真由美<なりた・まゆみ>さんを紹介する新聞記事を見つけ、母と2人励まされたことがきっかけでした。

 1990年代は制度も街も含め社会全体がバリアーだらけで、障がい者が本当に生きづらい時代でした。母と一緒に外出すると「こんなところに車いすの人が来るんだ」という心の声が聴こえてきましたし、逆に「偉いわね」と声を掛けられることも。ハード面でのバリアフリーはだいぶ進みましたが、一番肝心な「心のバリアフリー」はまだ十分ではないと感じます。今大会でも、障がいがある人を見るのがつらいという声や、障がいがあるのに頑張っていると捉える人が少なからずいました。見るのがつらいのは、障がいがある人を心のどこかでかわいそうだと思っているからであり、障がいを他人事<ひとごと>だと考えているから。

 私たち家族は障がいのあるなしに関係なく、社会の中で当たり前に暮らしたいと思っていただけで、何も特別なことはしていませんし、その当たり前の選択肢の中に、スポーツがあると気付かせてくれるのがパラアスリートの皆さんです。当然、金メダルをめざす選手もいますし、スポーツする姿を見せることで障がいを理由に諦<あきら>めている子どもに、自分にも出来るかもと思ってほしいと願う選手もいます。もちろん全員がトッププレーヤーにならなくてもいいんです。

 私もさすがに母に「パラリンピアンになって」とは言いませんでしたし、重い障がいを抱えながら日常生活の中で出来ることを増やしていった母は、やはり頑張っていました。「出来ないことではなく『出来ること』を数える」という母との暮らしの中で身に付けた発想の転換は、パラリンピックの「失ったものを数えるな。残されたものを最大限生かせ」という精神と全く同じで、1回目の奇跡は、障がいと共に生きる当事者となったことで気付きと学びを得られたことでした。

 東京開催が決まり、伝え手として何らかの形で関わりたいと思っていましたが、正直言って可能性はゼロ。それでも諦めずに声を上げ続けていたところ、ラジオ番組を担当するチャンスが舞い込みました。これも10年前に裏方ではなく、もう一度アナウンサーとして仕事がしたいと日本テレビを辞めてフリーになる決断をしたから実現したことでした。そして今回起きた奇跡は、コロナ対策のために無観客となり、制限はありましたが私の番組も急きょ取材できることになったこと。成田真由美さんも、もちろん取材できました。

 1人1人が持つ障がいも一様ではなく、競泳で金メダルを獲得した全盲の木村敬一<きむら・けいいち>選手は、幼い頃から見えないのが当たり前の中で水泳に出逢い、一つ一つ出来ることが増えていき、自分らしく生きる自信を持てたと話しています。また進行性の病気のために失明した木村選手のライバルで、同じ種目で銀メダルを取った富田宇宙<とみた・うちゅう>選手は、それまで普通に出来ていたことが出来なくなるという喪失<そうしつ>と絶望を乗り越え障がいを受容し、今の自分に出来ることを見つけて前に進んでいます。全く真逆のプロセスで視力を失った2人は、障がいを得たからこそ出逢い、切磋琢磨<せっさたくま>してお互いを高めあうことができました。

 「多様性を認めて共生社会をめざそう」と言われていますが、わざわざめざさなくとも私たちが暮らすこの社会は多様であり、すでに共生しています。そのことに気付くきっかけの一つがパラリンピックであり、大切なのはその気付きを行動に移せるかどうか。1人1人が違っていいと教えてくれた東京パラリンピックが、全ての人にとってゴールではなくスタートになることを願ってやみません。