東京パラリンピック柔道男子100㌔級日本代表
松本義和選手
公明党障がい者福祉委員長
三浦信祐参院議員
熱戦が繰り広げられた今夏の東京パラリンピックでは、障がいを超えて自身の限界に挑む選手たちの姿が、多くの感動を呼びました。今回は「パラスポーツの可能性」をテーマに、同大会で柔道100㌔級に出場した松本義和<まつもとよしかず>選手と、公明党障がい者福祉委員長の三浦信祐<みうらのぶひろ>参院議員が語り合いました。
■父の背中示せたパラリンピック/松本
■出場選手らの熱戦と道のりに感動/三浦
「この状況下でなぜ開催するのか」との批判もありましたが、最高のパフォーマンスを発揮しながら輝いている選手の皆さまを見て、開催されて本当に良かったと思いました。
大会に向けて猛練習に励む中、一時は開催自体も危ぶまれ、モチベーションを維持できるかどうかの戦いでもありました。1年間の延期により、練習場である道場もほとんど閉鎖。気づけば60歳近いぼろぼろの体です。心も折れそうになった時、何度も思い返したのはパラリンピックの父であるイギリスのグットマン博士の「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」との言葉でした。
今回、メダルは獲得できませんでしたが、うれしかったのは父としての背中を子どもたちに示せたことです。目が見えないのでキャッチボールもしてやれないし、ドライブに連れて行くこともできません。普通の父親らしいことはできなくても、子どもたちに誇れる親父でありたいと、がむしゃらに突き進んできました。実際、テレビで試合を見ていた子どもたちからは「教科書みたいにきれいに投げられたね」と笑われてしまいましたが。
無観客ではありましたが、会場の雰囲気はテレビ越しでもメラメラと伝わってきました。人間の無限の可能性を映し出すのがパラリンピックなのだと改めて感じました。
■仲間との出会いで障がい受け入れた/松本
■ありのままの自分信じることが大切/三浦
転機は19歳の時、視覚障がい者向けの生活訓練の場「日本ライトハウス」の寮で、自分と同じような人との出会いでした。私自身、それまで障がい者に対して偏見を持っていましたが、彼らと話す中で「自分は一人じゃない」と心が軽くなったんです。目は見えなくても立派に社会生活を送る人がこんなにもいるじゃないか、と。完全に目が見えなくなった時も「もう這<は>い上がるしかない」と逆に吹っ切れて、目が見えなくてもできることは何でもやろうと決めたんです。柔道もその一つですね。
その選手村で車いすマラソンの女子選手と話す機会がありました。「もし生まれ変わっても障がいがあったら、全盲と車いす、どちらがいいか」。そんな話題になって、お互いに「自分の障がいがやっぱりいいね」と笑い合ったんです。その時、自分の障がいを素直に受け入れていたことに気付きました。
■何でも挑戦の人生は断然楽しい/松本
■誰もが可能性引き出せる社会へ/三浦
公明党はこれまで、バリアフリーが当たり前の社会をめざし、2000年に成立した交通バリアフリー法をはじめ、駅などの旅客施設での段差解消や、障がい者用トイレの設置など、対策を一貫して推し進めてきました。また、公明党の主導で今年度から全面施行された改正バリアフリー法には、学校における「心のバリアフリー」教育や、啓発事業などを国が支援することも盛り込まれています。まさにハード・ソフトの両面からバリアフリー施策を強化しなくてはなりません。
パラリンピックに出場したからといって、一気に大舞台まで立てたわけではありません。一歩一歩、目の前にある課題に取り組んで少しずつ進んできただけです。現在、柔道5段を取得していますが、いまだに分からないこともたくさんあります。いろんな人に教えを請<こ>うて稽古<けいこ>しています。
感動を引き起こすのがスポーツの力です。ぜひ、障がい者が挑戦しやすい環境づくりを期待しています。
【略歴】まつもと・よしかず 1962年、大阪市生まれ。大阪府立盲学校(現・府立大阪南視覚支援学校)卒業。高校1年時に緑内障を発症し、20歳で全盲に。2000年のシドニーパラリンピックに初出場し、銅メダルを獲得。04年のアテネ大会では、選手団の旗手も務めた。大阪市内で鍼灸院<しんきゅういん>を営む。