HOME > 商品詳細2

点字こうめい No.83

①<特集>
対談「パラスポーツの可能性」 

 東京パラリンピック柔道男子100㌔級日本代表

 松本義和選手


 公明党障がい者福祉委員長

 三浦信祐参院議員

 熱戦が繰り広げられた今夏の東京パラリンピックでは、障がいを超えて自身の限界に挑む選手たちの姿が、多くの感動を呼びました。今回は「パラスポーツの可能性」をテーマに、同大会で柔道100㌔級に出場した松本義和<まつもとよしかず>選手と、公明党障がい者福祉委員長の三浦信祐<みうらのぶひろ>参院議員が語り合いました。

■父の背中示せたパラリンピック/松本
■出場選手らの熱戦と道のりに感動/三浦


三浦)
 東京パラリンピックでは、松本選手の不屈の闘志と、還暦間近とは思えない熱量で相手と組み合う姿に感動しました。

 「この状況下でなぜ開催するのか」との批判もありましたが、最高のパフォーマンスを発揮しながら輝いている選手の皆さまを見て、開催されて本当に良かったと思いました。


松本)
 ありがとうございます。私も一選手として、開催されたことに感謝しています。

 大会に向けて猛練習に励む中、一時は開催自体も危ぶまれ、モチベーションを維持できるかどうかの戦いでもありました。1年間の延期により、練習場である道場もほとんど閉鎖。気づけば60歳近いぼろぼろの体です。心も折れそうになった時、何度も思い返したのはパラリンピックの父であるイギリスのグットマン博士の「失ったものを数えるな、残されたものを最大限生かせ」との言葉でした。

 今回、メダルは獲得できませんでしたが、うれしかったのは父としての背中を子どもたちに示せたことです。目が見えないのでキャッチボールもしてやれないし、ドライブに連れて行くこともできません。普通の父親らしいことはできなくても、子どもたちに誇れる親父でありたいと、がむしゃらに突き進んできました。実際、テレビで試合を見ていた子どもたちからは「教科書みたいにきれいに投げられたね」と笑われてしまいましたが。


三浦)
 パラリンピックの舞台に立つこと自体がすごいことで、お子さんたちにとってもメダル以上の価値があったと思います。パラリンピックでは、それぞれの国の選手が自身の障がいと向き合い、乗り越えて競技に挑んでいく。世界の大舞台にたどり着くまでにはたくさんのドラマがありますし、だからこそ選手やスタッフ、応援している人のさまざまな熱気の渦に巻き込まれて、あの大迫力の試合となるんですね。

 無観客ではありましたが、会場の雰囲気はテレビ越しでもメラメラと伝わってきました。人間の無限の可能性を映し出すのがパラリンピックなのだと改めて感じました。


松本)
 選手それぞれ状況が違います。それでも一度、柔道着にそでを通して組み合えば、あとは「相手をどうやって倒すか」という気持ちだけです。真剣勝負ですし、スポーツの世界に健常者も障がい者もありません。だからスポーツはおもしろい。今回の東京パラリンピックを通して、少しでも多くの人に希望を与えられたとしたら、うれしいです。

■仲間との出会いで障がい受け入れた/松本
■ありのままの自分信じることが大切/三浦


三浦)
 パラリンピックにたどり着くまでは、長く険しい道のりがあったと思います。柔道を始めたきっかけは何ですか。


松本)
 高校生の時に緑内障<りょくないしょう>を発症して、20歳で全盲になりました。どんどん視力を失っていく苦しみを誰にも相談できず、「世の中で一番不幸なのは俺なんや」と悔しくて泣きました。

 転機は19歳の時、視覚障がい者向けの生活訓練の場「日本ライトハウス」の寮で、自分と同じような人との出会いでした。私自身、それまで障がい者に対して偏見を持っていましたが、彼らと話す中で「自分は一人じゃない」と心が軽くなったんです。目は見えなくても立派に社会生活を送る人がこんなにもいるじゃないか、と。完全に目が見えなくなった時も「もう這<は>い上がるしかない」と逆に吹っ切れて、目が見えなくてもできることは何でもやろうと決めたんです。柔道もその一つですね。


三浦)
 かけがえのない仲間との出会いが人生を大きく変えたんですね。障がいを乗り越えるということは、ありのままの自分を素直に受け入れて、どう楽しく生きていくかを懸命に考えることがスタートなのかもしれません。


松本)
 その通りです。もう一つ、思い出深いのは、2000年のシドニーパラリンピックです。私が初めて出場したパラリンピックだったんですが、選手村での海外選手の明るさに衝撃を受けました。彼らは観客の前やテレビで、誰よりも目立とうと必死なんです。障がいを個性として捉<とら>え、隠<かく>さない姿にびっくりしました。

 その選手村で車いすマラソンの女子選手と話す機会がありました。「もし生まれ変わっても障がいがあったら、全盲と車いす、どちらがいいか」。そんな話題になって、お互いに「自分の障がいがやっぱりいいね」と笑い合ったんです。その時、自分の障がいを素直に受け入れていたことに気付きました。


三浦)
 自分の持っている可能性を信じ抜き、とことん突き進んでいく中で〝自分らしさ〟が見えてくるということですね。それは障がいの有無に限らず、全ての人に当てはまることです。挑戦し切った先に人生の楽しみや充実感もあります。だから頑張っている人は輝いてるんですね。

■何でも挑戦の人生は断然楽しい/松本
■誰もが可能性引き出せる社会へ/三浦


松本)
 2000年のシドニー、04年のアテネ、そして今年の東京と、3度のパラリンピックに出場して痛感したのは、障がい者は〝目立ってなんぼ〟だということです。日本では、障がいを隠そうとする人が多い。それでは本当の意味での共生社会の実現はありません。実際に障がい者と会って初めて気付くこともあります。私自身、取材の依頼があればできるだけ受けて、露出<ろしゅつ>を増やすようにしています。障がい者は表に出て目立たないと、健常者とつながっていけないと思うからです。だから、スポーツを通して障がい者が目立つパラリンピックは、非常に重要なイベントの一つではないでしょうか。


三浦)
 おっしゃる通りです。スポーツ庁が今年発表した調査によると、障がい者で週1回以上スポーツをしている人の割合は24・9%で、一般成人の半分にも満たない状況です。コロナ禍<か>も関係しているかもしれませんが、障がい者にとってスポーツのハードルは高いように感じます。

 公明党はこれまで、バリアフリーが当たり前の社会をめざし、2000年に成立した交通バリアフリー法をはじめ、駅などの旅客施設での段差解消や、障がい者用トイレの設置など、対策を一貫して推し進めてきました。また、公明党の主導で今年度から全面施行された改正バリアフリー法には、学校における「心のバリアフリー」教育や、啓発事業などを国が支援することも盛り込まれています。まさにハード・ソフトの両面からバリアフリー施策を強化しなくてはなりません。


松本)
 素晴らしいですね。私は柔道のほかにも、マラソンが趣味なのでよく走っていますが、実は過去に2回、100㌔マラソンに挑戦し完走することができました。ブラインドサッカーで日本代表を務めたこともあります。つまり、何でも〝挑戦した者勝ち〟だということです。外出すれば好奇な目で見られるとか気にする人もいますが、他人の顔色を伺<うかが>っても仕方がない。引け目を感じる必要はないんです。自分のやりたいことをやった方が断然、楽しいですから。

 パラリンピックに出場したからといって、一気に大舞台まで立てたわけではありません。一歩一歩、目の前にある課題に取り組んで少しずつ進んできただけです。現在、柔道5段を取得していますが、いまだに分からないこともたくさんあります。いろんな人に教えを請<こ>うて稽古<けいこ>しています。

 感動を引き起こすのがスポーツの力です。ぜひ、障がい者が挑戦しやすい環境づくりを期待しています。


三浦)
 本来、あるべきチャンスを障がいによって奪われない社会にしなくてはなりません。一人一人が持っている可能性を存分に引き出せるような環境を整えるのが政治の役割です。これからも、健常者や障がい者という垣根を取り払って、誰もが認め合い、活躍できる共生社会の実現をめざし頑張っていきます。


【略歴】まつもと・よしかず 1962年、大阪市生まれ。大阪府立盲学校(現・府立大阪南視覚支援学校)卒業。高校1年時に緑内障を発症し、20歳で全盲に。2000年のシドニーパラリンピックに初出場し、銅メダルを獲得。04年のアテネ大会では、選手団の旗手も務めた。大阪市内で鍼灸院<しんきゅういん>を営む。