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点字こうめい No.74


<特別寄稿>
「土俵<どひょう>も人生も『前に出た人』が勝つ」

日本相撲協会事業部長<にほんすもうきょうかいじぎょうぶちょう>
尾車浩一<おぐるま・こういち>(元大関<もとおおぜき>・琴風<ことかぜ>)親方

 尾車部屋を設立して今年で30年になります。今日<こんにち>まで途切<とぎ>れることなく弟子を預かり、無我夢中<むがむちゅう>で日々を過ごしてきました。部屋の設立から関取<せきとり>の誕生まで10年以上かかりましたが、今では弟子の豪風<たけかぜ>や嘉風<よしかぜ>が幕内<まくうち>で頑張っています。また、私は現在、相撲協会の事業部長として、運営や業務などの決済を下す重い責任も担っています。弟子のため、相撲界のために、これからも一日一日、ただ前を向いて進んでいきたい。そう決意しています。

 5年前の2012年4月、私は巡業先<じゅんぎょうさき>で頭から転倒し、首から下が動かなくなる大けがを負いました。肉体的にも精神的にも絶望的な状況でしたが、手術後、厳しいリハビリに励み、多くの人の支えもあって再び仕事ができるようになりました。もちろん、けがをする前よりも体の不便<ふべん>はあるし、リハビリは今も毎日続けています。リハビリは、やればすぐに結果が出るというものではありませんが、「現状維持<げんじょういじ>できているということは結果が出ている証拠<しょうこ>だ」と捉<とら>えています。経過を知る妻から「去年より良くなった」と言われますし、入院していた頃<ころ>に比べれば、今は夢のような状況です。

 私は現役<げんえき>時代も、たびたび大けがに見舞<みま>われました。その時も師匠<ししょう>の十二代佐渡ケ嶽親方<じゅうにだいさどがたけおやかた>(元横綱・琴櫻<ことざくら>)や家族、病院の関係者、ファンなど多くの人のおかげで復活することができました。特に忘れられないのが、左ひざの靱帯断裂<じんたいだんれつ>から復帰した1979年7月の名古屋場所です。私は前年に関脇<せきわけ>まで昇進<しょうしん>したものの、けがによる休場が重なり、この場所では幕下<まくした>30枚目まで落ちていました。復帰初日、観客席はまばらで、私の姿はみじめに見えたかもしれません。ところが、土俵に上がると観客席から「頑張れー!」という大きな声援が飛んできたのです。涙が出るほどうれしく、勇気が湧<わ>くのを実感しました。一番どん底<ぞこ>だった時の、この応援が原動力となり、私はその後、大関昇進と2度の幕内優勝を成<な>し遂<と>げることができました。優勝もうれしかったのですが、やはり私にとって、この復帰初日の声援こそが現役生活で一番の思い出です。

 「皆さんからの恩を返すには勝つことが一番」。現役時代、こう決めて相撲を取ってきました。勝負の世界にいる以上、ただ頑張ったというだけでは駄目<だめ>です。結果を出さなければなりません。今も弟子たちには、このことを強く訴えています。弟子を褒<ほ>めて感謝された方が私も楽<らく>ですが、それでは弟子の底力<そこぢから>がつきません。叱<しか>る時は叱り、優しくする時は優しくするというメリハリは当然大事です。その上で、弟子を本当に思うのであれば、憎<にく>まれ役になることも必要です。私も親方に叱られてばかりでしたが、「俺<おれ>のことを思ってくれている」と感じられたから耐<た>えることができました。この師弟<してい>の絆があるからこそ、今、私も弟子を預かれるし、弟子も相撲を続けられるのだと思います。

 14歳で相撲界に入って46年、さまざまな経験をしてきました。この年になってようやく、「人生とは体や心に傷<きず>を負いながらも、それを一つ一つ克服<こくふく>していくことではないか」と思えるようになりました。「土俵は人生の縮図<しゅくず>」という言葉があります。押し出して、寄り切って、つり出して優勝した力士は多くいますが、うっちゃり、はたき込<こ>み、肩透<かたす>かしだけで優勝した力士はいません。つまり、相手の力を利用して勝つことを覚えると本当の力はつかない、自分から前に出て攻めていかないと強くなれないということです。これは人生も同じではないでしょうか。

 どんな困難があっても真<ま>っ向<こう>から受け止めてハネ返していく。途中で負けても次は勝利して、番付<ばんづけ>を上げていくような人生を歩んでいく。そして最後に「自分は勝った」と言って死んでいく――。私はそのような人生でありたいし、皆さんもそうあってほしい、勝利の人生を送っていただきたい。そう強く願っています。